大正&昭和

『19歳で芥川賞候補、21歳で自ら命を絶つ』天才文学少女・久坂葉子の鮮烈な生涯

昭和27年(1952)12月31日の夜、ひとりの若き女性作家が阪急六甲駅で特急電車に飛び込み、21歳で命を絶った。

彼女の名は久坂葉子(くさか ようこ)。

彼女は名門・川崎財閥の血を引く家に生まれ、わずか19歳で芥川賞候補となった才媛であり、美貌と芸術的才能を併せ持つ存在として注目を集めていた。

なぜ彼女は若くして命を絶ってしまったのか。その短くも濃密な生涯をひもといていこう。

名家に生まれた自由奔放な少女

画像 : 久坂葉子 (昭和6年-昭和27年)public domain

昭和6年(1931)3月、久坂葉子(本名・川崎澄子)は、神戸の名門・川崎家に生まれた。

父は川崎芳熊、母は久子。葉子は川崎重工創業者・川崎正蔵の曾孫にあたり、財閥家系に連なる男爵家の令嬢であった。

葉子は物心ついた頃から自我が強く、周囲に合わせることを苦手だった。幼稚園の集団生活にもなじめず、付き添いの乳母が「この子には幼稚園は合わない」と母親に訴え、通園を取りやめたほどであった。

その後、姉とともに日本舞踊やピアノを習いながら、上流家庭の教養教育を受けて育った。

小学校に進むと、葉子はガキ大将のようにふるまい、厳格な学校の規則に強い息苦しさを感じるようになる。
一方で、「自分はもらい子である」「遠い国で動物に育てられた」などの空想話を語っては家族を驚かせ、友人と即興の劇をつくって遊ぶなど、豊かな創造力をのぞかせていた。

父・芳熊は読書家で、俳句や南画をたしなむ文化人でもあった。
川崎家では家庭内で句会が開かれることも多く、葉子の文学的な才能は早くから際立っていた。兄弟姉妹の中でもとりわけその素質を父から期待され、深く愛されて育った。

財閥解体令

画像 : 第二次世界大戦 public domain

やがて第二次世界大戦が始まり、国家主義的な空気が社会を覆う中で、葉子は個人の自由を奪われていくことに強い閉塞感を覚える。

他人とは異なる感性を持つ彼女にとって、生きる意味そのものが見出しにくい時代だった。やがて彼女は仏教に惹かれるようになり、人知れず数珠を身に着けるようになる。

12歳で神戸山手高等女学校に進学した葉子だったが、右腕に数珠を巻いて登校する姿は周囲から奇異の目で見られ、孤独感を深めた。
得意な科目では抜群の成績を見せる一方、関心のない授業にはまったく手をつけず、教師と激しくやり合うこともあったという。

学校を抜け出して喫茶店や映画館に通い、小説を読みふけり、煙草をふかすなど、当時としては異端の少女だった。

昭和20年(1945)、14歳のときに神戸大空襲で自宅を焼け出され、一家は伯父の家へと身を寄せた。

8月には終戦を迎え、間もなく財閥解体令が出されると、軍需産業に関わっていた父・芳熊は公職追放となり、一家はかつての栄華を失って生活は困窮を極めた。

このような戦後の急激な価値観の転換は、川崎家の大人たちだけでなく、思春期の葉子にとってもあまりに苛酷な現実であった。

死に惹かれながらも創作を続け、18歳で文壇の門を叩く

画像 : 久坂葉子がいた神戸より

戦後の混乱の中で、生きることそのものに苦しみを感じていた久坂葉子は、16歳の夏、昭和22年(1947)に最初の自殺未遂を起こしている。

学校にも通わなくなり、日がな映画館に入り浸る日々を過ごした。

同年11月、母の勧めで相愛女子専門学校(現在の相愛大学)に転入するが、わずか一か月で退学。12月には再び自殺を図った。

翌昭和23年(1948)、17歳になった葉子は、家を出て働く決意を固める。
封建的な家庭環境から抜け出し、自由に生きたいという思いと、どうしようもない死への衝動のあいだで揺れながら、友人の父が役員を務める羅紗問屋「竹馬産業」で給仕として働き始めた。

それからしばらくは真面目に仕事に取り組んでいたが、10月には三度目の自殺未遂に及んだ。

そうした苦しい心の内を、彼女は詩や小説へと吐き出していくようになる。

そして昭和24年(1949)、18歳の夏、友人の紹介で作家・島尾敏雄のもとを訪れ、自作の小説を持ち込んだ。

画像 : 島尾敏雄。1966年8月16日、千代田区九段で撮影 public domain

島尾の推薦により、文芸同人誌『VIKING』に参加することとなり、同誌の創刊メンバーである富士正晴の指導を受けるようになる。

最初に持ち込んだ作品は評価されなかったが、次に提出した、戦争未亡人を主人公とした『入梅』が高く評価され、久坂葉子という筆名で『VIKING』に掲載された。
合評会で富士は「こいつは来々年の芥川賞候補になるであろう」とつぶやいたという。

以降、葉子は『VIKING』に毎月のように作品を発表するようになった。

作品は合評会で厳しい批判を受けることも多かったが、昭和25年(1950)には、それまでの中で最も長編となる小説『落ちてゆく世界』を発表。

戦後の没落貴族の家庭に生まれ、封建的で病弱な父、神頼みばかりの母、結核で入院する兄という環境に閉じ込められた少女が、売り食いの生活の中で占い師に将来を告げられ、やがて父が急死するも、何も変わらない日常をただ生き続けるという虚無感に満ちた内容であった。

この作品は出版社・作品社の八木岡英治の目にとまり、『ドミノのお告げ』と改題・改稿されたうえで雑誌『作品』に掲載され、第二十三回芥川賞候補に選ばれる。

当時、葉子はまだ19歳。
彼女はその報せを聞いたとき、「びっくりした。喜びよりも、えらいこっちゃと心配になってきた」と語ったという。
受賞こそ逃したものの、文壇に認められたことは葉子に大きな自信を与えた。

一方で、それは「思いつくままに書く自由」が失われたことも意味していた。
しかし以後、葉子はたびたび上京し、出版社を訪ね、文士たちと交流するようになる。

彼女のなかには、「東京で作家として立つ」という強い意志が芽生えていた。

書くことに行き詰まり、恋愛に傷つき、大晦日に最後の原稿を届ける

画像 : 久坂葉子がいた神戸より

それから葉子は、自身の幼少期から思春期にかけてを題材にした自伝的小説『灰色の記憶』を執筆した。
成長する少女の内面を描いたとされるこの作品には、葉子の死への憧れが色濃くにじんでいた。

指導者である富士は良いと評価したが、他の同人の意見の中には「作文が上手というだけに終わらないか心配だ」などの声もあり、例会では不評であった。
また、名家出身で若い葉子に対する嫉妬もあり、例会では彼女に対してあからさまに冷ややかな態度を取る者もいた。

昭和26年(1951)、こうした評価に深く失望した葉子は『VIKING』を脱退し、生活のためにラジオ局へ就職。ドラマ脚本の執筆に携わりながら、そこで出会った既婚の上司と不倫関係に陥ったが、やがて破局した。

翌昭和27年(1952)2月、仕事にも恋愛にも行き詰まりを感じた葉子は、ひとり九州へ旅に出る。
3月に神戸へ戻った直後、彼女は4度目となる自殺未遂を起こした。

将来を案じた母・久子は、娘を自宅で静養させることにした。

療養生活の中でも、葉子は創作への意欲を絶やさなかった。詩や音楽への関心を活かして『現代演劇研究所』の創立に参加し、研究発表会では詩の朗読とそのBGMの作曲まで手がけた。
再び『VIKING』に復帰し、富士が大阪で立ち上げた新たな同人誌『VILLON』の創刊同人にも名を連ねた。

その年の夏、新たに舞台俳優の恋人と出会い、創作も再び活気を取り戻したかに見えた。『VILLON』には、彼女が渾身の力を込めて書き上げた『華々しき瞬間』が掲載された。
しかし、男女の微妙な心理と関係を描いたこの作品は、同人たちばかりか富士からも酷評されてしまう。

その後、葉子は希望を抱いて上京したが、出版社には相手にされず、再会を願っていた文士たちにも会うことはできなかった。

11月、失意のまま帰神した葉子は、『久坂葉子の誕生と死亡』という作品を書き上げる。
作家・島尾敏雄との出会いから創作の苦悩、そして「久坂葉子という存在を自ら葬ろう」と決意するに至るまでを綴ったもので、富士に原稿を託した。

12月22日、葉子は富山県・黒部で自殺を遂げようと計画していたが、恋人から突然の求婚を受け、自殺を思いとどまる。
その際、富士には前述の原稿を破棄するよう依頼している。
しかしその後、恋人の態度は一変し、葉子に冷淡な態度をとるようになった。

12月28日、葉子は『幾度目かの最期』の執筆に取りかかった。

これは、過去の不倫相手「緑の島」、愛はないが生活の保障を約束する婚約者「青白き大佐」、現在の恋人「鉄路のほとり」という3人の男性の間で揺れ動く自らの姿を、女学校時代の友人の母であり、親しくしていた「熊野の小母様」宛の手紙という形式で綴った作品であった。

そして大晦日、夜明け前にこの作品を書き上げた葉子は、原稿を京都の恋人のもとに届けた。その後神戸に戻り、夜には知人たちとの忘年会に顔を出すが、途中で会場を抜け出す。

そして、阪急六甲駅で特急電車に身を投じ、21年の生涯を閉じた。

多才で、詩人であり、小説家であり、演出家でもあった久坂葉子。彼女の死は、周囲の人々に衝撃を与えただけでなく、「とうとう実行してしまったのか」という、予感めいた諦念すら抱かせたという。

異端の感性、繊細な精神、そして死への憧れ、それらすべてが、彼女の魅力であり、また才能でもあったのかもしれない。

参考 :
柏木薫「神戸残照久坂葉子」勉誠出版
詩と詩論研究会「金子みすゞと夭折の詩人たち」勉誠出版
久坂部羊「早逝の女流作家 久坂葉子はとまらない」月刊神戸っ子
文 / 草の実堂編集部

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